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自分が本当にやりたいと思うことを知ることは不可能だと言うこと

今日も等々力緑地にいます
いま午後5時過ぎですが日差しは木々が遮ってくれて風もあるのでとても快適です

そのうえ4人がけのテーブルとベンチを一人で占領しています
テーブルのうえはiphotoとキーボードだけ
僕の自宅のジャングルもとい机のうえより快適です

で何書こうとしてたんだっけ?

自分が本当は何がしたいかと言うことは原理的にわからないのではないかということです

いわゆる自分探し
僕も昔はしていたしいまもしているとおもいます
しかし今と昔で考えが変わったのは
どんなに探しても自分は見つからないことがわかりました
しかしだからと言って自分探し的なことが無意味だとは思いません
そこに固執せず適当にやればいいと思っています

例えばうんこしたいオシッコしたい
オナニーしたいビールのみたいはらへった何か食いたい

こういうことは限りなく純粋に自分がしたいことだと言えます

今日はゆで卵一個とホットケーキいちいまいしか食べてないせいか腹へってきた

いま僕はこうしてブログを書いていますがただ自分が書きたいから書いているとは言えません

おかげさまでブログのアクセスは少しづつ増えていますTwitterのフォロワーも増えています

直接、面白かったと伝えてくれる方もいらっしゃいます

こうなってくるとただ書きたいから書いているとは到底言えない
やはり誰かに期待されていることに応えて喜んで欲しい

結局、ブログを書く動機は
僕自身のただ書きたいということと他人の書いて欲しいということの合わさったもののように思えます

あくまでも書くのは僕自身のみで他人から強要されるわけじゃないです
でもやはり純粋に僕自身の独立した意思のみによって書いているとは言えないです

ブログを書くことのみならず僕自身のあらゆる行動を振り返ってみると同様に他人の期待が含まれている事に気づきました

他人の期待に応えようとすることも自分の意思だと言うこともできますが

他人の期待に応えようとしていることを自分では気づいていないということもあります

僕は昔、気づいていませんでした

親の期待に潰される子供っていますよね
彼らが親の期待に応えようと自覚的であるならばともかくですが潰れるところまで至るのはたぶんそうじゃないからだと

自分がこうしたいからやっていると思っていた事がぜんぜんそうじゃなかったことに気づいて唖然とする

僕は中学生以降、おばあちゃんか僕にお小遣いを渡そうとしても僕はそれを拒否していました

でもね本当はとっても欲しかったんですお小遣い

このことに気づいたのはそれから10年以上たっていましたね
ばあちゃんも死んでいました

自分と他人の境目は定められません
自分と思っているものはだいぶ気のせいです笑
昨日の自分と今日の自分の関係もだいぶあやしいですね笑あてにきでません

他人の中には自分もいます
他人の中の自分に救われることってよくありますよ

今度の土曜日、ある人と昼間っからビール飲む約束しています
彼と会うのはもう何年ぶりでしょうか?実は二人っきりで会うのも初めてなのです
こういうのは最高にワクワクします

彼からmixi経由で連絡もらいました
これも彼の中の僕の仕業ですね

自分探しはゲームにとどめておきましょう

ああ、腹減った
これから走る
けど腹鳴ってる